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女神のみすまる 神社・聖地探訪録

Annaの訪れた土地の忘備録に

陸奥国二宮 伊佐須美神社(福島県大沼郡)

福島県大沼郡会津美里町字宮林甲4377
北緯37度27分24.39秒 東経139度50分26.45秒

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祭神 : 伊耶那岐命、伊耶那美命、大毘古命、建沼河別命
相殿 : 塩釜大神、八幡大神
創建 : (伝)第29代欽明天皇21年(560年)
※創祀は第10代崇神天皇10年、大毘古命・建沼河別命の勧請と伝う

 

 

<ご由緒・歴史>

当神社は悠久二千年の昔、崇神天皇の御代、四道将軍派遣のころ勧請された古社である。
即ち、崇神天皇十年(西暦98年)大毘古命は北陸道へ、建沼河別命東山道へ遣わされたが、
それぞれ各地を巡撫されたのち、始めてこの地でお会いになった。(会津の地名)
この時、岩越国境(現在の新潟県境)の天津嶽(御神楽嶽)に国家鎮護のため国土開拓の祖神(伊耶那岐命 伊耶那美命)を奉斎されたのが、当神社の始まりとされている。
その後、博士山・明神岳を経て欽明天皇十三年(西暦552年)に高田南原に遷御、更に同十九年高田東原(現在の宮地)遷御、同二十一年(西暦560年)社殿を造営御鎮座になり現在に至る。
この間、歴朝の崇尊甚だ篤く、「延喜式神明帳(西暦927年成立)」には奥州西座のうち「明神大社」として十五社に列せられ、
また「貞観格式」によれば「正一位奉授」寛政十一年(西暦1799年)には特に「大神宮号」の宣下があった。
更に明治六年には「国幣中社」に列格されたが、古来より奥州二宮・岩代国一宮と敬仰され、会津の総鎮守として歴代の藩公はもとより、衆庶民の崇敬は殊の外篤かった。(以下略)


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 社殿造営の際には、大宮司は上官の安部宿禰能基、中官は左官に赤吉宿禰公惟と右官に黒田宿禰道実の2人、さらに神主9人や検校ら多数の神官があり奉仕に携わったという。このうち黒田宿禰建沼河別命の弟と伝える。


地名伝承では、以上に見える山名のうち「御神楽岳」は鎮座の際に神楽が奏されたことに、
「博士山」は四道将軍が大太刀を腰に佩いて通ったため「佩かせ山」と称されたことにそれぞれ由来するという。
また、3番目の明神ヶ岳には現在も伊佐須美神社の奥宮が鎮座している。 前述のように四道将軍説話の史実性は明らかでないが、御神楽岳→博士山→明神ヶ岳という道筋には越後から会津への常浪川・只見川沿いの幹線路が想定される ため、伊佐須美神社遷座ルートは大毘古命による北陸からの侵攻路を表すという説が挙げられている。

また、このルート周辺では伊佐須美神社遷座を妨害したという「千石太郎」伝説が残り、この伝説にヤマト王権への恭順前の会津の様子を見る指摘もある。

国史での初見は承和10年(843年)で、「伊佐酒美神」の神階が無位から従五位下に昇叙されたと見える。
この会津郡は大沼郡分置前の郡で、当時の会津地方は会津郡と耶麻郡の2郡から成っていた。
2郡の式内社伊佐須美神社・蚕養国神社(会津郡)、磐椅神社(耶麻郡)の3社で、それらのうち伊佐須美神社のみが名神大社に列している。
また『和名抄』に見える地名として当地は「会津郡屋代郷」に比定されるが、この「屋代(やしろ)」とは「社」すなわち伊佐須美神社に由来するとされる。

上記の磐椅神社(現・耶麻郡猪苗代町西峰)については、国史において斉衡2年(855年)に従四位下に加階されたと見える。
すなわち、9世紀中頃までは磐椅神社の方が上位であったが、9世紀後半に社格の逆転が起こり、『延喜式神名帳がまとめられた10世紀初頭には伊佐須美神社の方が上位となったことになる。
この逆転に関しては、磐椅神社が磐梯山を祀る国津神として上位にあったのに対して、伊佐須美神社がこの時期に中央神である伊弉諾尊伊弉冉尊を勧請して天津神に列したためとする説があり、四道将軍の縁起への取り入れもこの時期と推測する説もある。
なお、『伊佐須美神社史』では伊佐須美神社と磐椅神社との関係について、古くは伊佐須美神社側では神籬を立てて磐椅神を迎え、磐椅神社側でも伊佐須美神を客神として祀るという相補関係にあったと伝える。
中世には、伊佐須美神社陸奥国の二宮の地位にあったとされる。

平成20年(2008年)10月3日には火災により拝殿・授与所が焼失し、同年10月29日にも火災で本殿・神楽殿・神饌所などが全焼したため、現在の本殿・拝殿等は再建中である(2014年8月現在)。

Wikipediaより

 

菅原神社(菅原道真
会津大国魂神社(会津大国魂の神)
殺生石稲荷神社(宇迦魂神)
白山神社(菊理姫命)

境外社(摂社末社):
斎神社、手兒神社、金跨神社、大沼神社、二渡神社、寄合社

諏訪神社 - 佐布川
麓山神社 - 雀林
御舘熊野神社 - 境野 熊野神社 - 安田
春日神社 - 沖中田
稲荷神社 - 阿久津
日枝神社 - 新屋敷
稲荷神社 - 寺崎
意加美神社 - 雀林
御田神社 - 高田下町
八幡・白山神社 - 佐賀瀬川

※摂社末社の情報がソースごとに異なるので、要確認

<特殊神事>

  • 鎮火祭 4月15日 御祭神に関係の深い火の神を祀る、「ひぶせ」の祭。
  • 花祝祭 5月上旬 「花の餅」とも称し、ご神木の「薄墨桜」満開の吉日を選び、桜花を餅につきまぜて神前に供え、餅を直会で頂く神事。
  • 砂山祭 旧5月5日 一社伝来の古神事の祭典で秘事として一般崇敬者なく神職のみで奉仕するが、塩焼の神事。神饌は笹餅。
  • 御田植祭 7月12日 群童による獅子追、神輿渡御(神幸祭)による御田神社前での田植式・田植踊りは伊勢の朝田・熱田の昼田・高田の夕田は全国に有名。
  • 渡御祭 旧6月15日 「御涼祭」とも称し、境内高天原仮殿まで渡御するが、例祭に合わせ執行。
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ここは、会津の古代を考えるうえで、避けて通れない神社なんじゃないかな、と思います。由緒にもあるように四道将軍の事績が創建の由来だと伝えている古社。
歴史ある神社ではあるけれども、ここに訪れるたびに「神社」というのは果たしてなんだのだろう?という想いに駆られる部分もあります。
2008年の火災以来、仮本殿のままなわけですが、焼かれて痛々しかったご神木の飛龍の藤や聖人手植えの槇など、復活し青々とした葉を茂らせている姿こそ、敬うに値するものだと思います。
日の光や緑のざわめき、水のきらめきに神々は宿るのだと、私はそう思うのです。

以前、たまたま先祖代々ここの氏子をされており、ここの歴史を調べておられる方とお話しする機会があって、昔はもっとご神域の森も広く鬱蒼としており、大きな木が沢山生えていたと仰ってました。
しかし昭和の開発で道路を作るために沢山木を切ってしまったらしい。(その時の宮司は短命だったそうな^^;)
せめてそのころの伊佐須美に会いたかったなと思います。

ご由緒に関しては四道将軍の事績を無理やりくっつけた感じはしないでもないのですが、御神楽岳~博士山~明神ヶ嶽のルート(越後から会津への常浪川・只見川沿い経由)で何らかの氏族が会津に入植してきたことは確かなのではないかと思います。それはイサスミだけの伝承ではなく、旧本郷~高田町~新鶴町など近隣の神社や伝承、遺跡の分布にもうかがい知ることができるような。また、ここから北東に離れた会津若松市内の八角神社(やすみじんじゃ)も古くは伊佐須美神社と呼んだらしく、そこそこ大きな神社だったらしいのです。この八角神社の神は伊佐須美神社と同じイザナギイザナミで、岩舟に乗って会津へやってきたとのこと、その時の岩舟が、会津若松市旧滝沢峠の中腹に「舟石」として残っています。ちょうど山頂に古墳のある堂ヶ作山と飯盛山から見ても絶妙な位置にあるので、この舟石と古墳の主は何か関係性を持っていると思われますが、八角神社、ひいては旧高田町の伊佐須美神社との関係も気になります。
伊佐須美神社との直接的な繋がりはみえないけれど、旧高田町の船岡稲荷神社に、まだ人々が多く無い頃、神様が石の船に乗ってきて、その船がここに落ちたという伝承もあり、こちらもまた境内にその舟石が現存しています。

また、この伊佐須美神社の「イサスミ」という語感も気になっています。言語に詳しくないのでアレですが、博士山の「ハカセ」も=履かせ、ではない別の由来がありそうだと妄想しています。イサスミについては周辺の神社や遺跡、伝承も含め今後も色々深く考察していく余地があると思われます。