亀岡文殊 大聖寺(山形県東置賜郡)
亀岡文殊は、丹後(京都)の切戸の文殊、大和(奈良)の安倍の文殊とともに、日本三文殊の一つとして有名である。 大同2年(807年)に、東北地方布教のため、当地を訪れた徳一上人が、五台山に似た山容に心うたれ堂宇を建立したのが文殊堂の始めといわれている。
別当、大聖寺は真言宗に属し、皇室の勅願所として、国家安穏の祈祷を命ぜられ、また、徳川5代将軍綱吉以来家茂まで十代の間、ご朱印百石を賜り、中納言挌の待遇を受けた天下の名刹となっている。
文殊堂は文殊菩薩、すなわち釈遵の左にいて知恵を司る菩薩をまつり、中国では五台山がその浄土とされ、昔から、『三人よれば文殊の知恵』といわれるように、学問の神様として知られている。入学、入社試験等の合格祈願に訪れる人があとを絶たない。
境内には、老杉の大木が繁り、歴史の重みと厳かな雰囲気が漂う。
大聖寺本坊には、大日如来を本尊としてまつり、ほかに桧の寄木造漆箔像の木造聖観世音菩薩立像(県指定)と阿弥陀、薬師像の2体がある。いずれも鎌倉時代の作とみられている。文殊尊に参詣し傍らの大黒天の前に行き両手で尊像を抱き、「軽く哉なり給え」と念ずれば、次第に軽くなり、「重くなり給え」と念ずれば重くなり、また、念願達成のときには軽く持ち上げられるという。
参道入口には仁王門があり、両脇には金剛力士像がある。参道途中には、十六羅漢像、芭蕉句碑、『南無阿弥陀仏』と刻された義民高梨利右エ門の念仏碑があ り、薬師如来をまつる払川薬師堂のほか、文殊堂背面には大日如来、普賢菩薩、虚空蔵菩薩がまつられ、また一山の守護神、蔵王権現が鎮座している。
(高畠町役場HPより抜粋)
永禄8年(1565)政宗の母である義姫は、男子の誕生を願い、亀岡文殊堂の近くの行者、長海上人を訪れ、湯殿山に祈願を頼みました。
ある夜、白髪の老僧が義姫の夢枕に現れ、「姫の胎内に宿を借りたい」という瑞夢を見ます、老僧は夢のなかに義姫に幣束を授け「胎育し給え」と言って立ち去りました。
まもなく、義姫はめでたく懐妊し政宗が誕生しました。修験道では幣束のことを「梵天」というので「梵天丸」と名付けられたといわれています。
また慶長7年(1602)、直江兼続が前田慶次などの武将たちを集めて歌会を催しており、その時の和歌や漢詩が「直江兼続等詩歌百首帖」として奉納されているそうです。
戦国時代の名だたる人物もこの亀岡文殊とは関係が深いようです。
※麓の山門から背後の山が迫って見えます。圧倒されるものがあり、ご由緒書きにある歴史以上の古さのある土地ではないかと感じさせます。
いつかの夏の暑い日の夕暮れに訪れた時のこと、遠くで雷鳴が鳴り響く静まり返った境内、一雨来る前に急いでなが~い階段の参道を上ったのに、門がしまっていてとてもがっかりして、引き返そうと思った私。
雷鳴とヒグラシの声だけが煩くて、誰もいない参道のなか、羅漢像の視線を気にしつつ、怖いようなもっといたいような不思議な感覚になりました。あれは間違いなく時間軸の隙間に迷い込でいたとおもうのよね。笑
(でも麓で人を待たせていたので帰ってこれたよw)
そういえば一番最初にココに訪れた時も、駐車場でわりと大きめのヤマカガシを見たんだっけな。蛇や龍は古代の神の使いだ。そのような個人的体験から、由緒書きにも何も載っていないけれど、ここは知恵の神うんぬん以上の何かがあるのではないかと思うようになりました。
置賜地方は、古代、ウキタムと呼ばれていたようです。近くには旧石器時代の洞窟遺跡や縄文遺跡、古墳などが沢山点在しており、(今考えると涎もののスポットなわけねw)やはりこの地も古来より、聖なる土地だったのだろうと思います。
明治期にこの土地を訪れたイザべラ・バードも、置賜地方を「豊饒(ほうじょう)にして微笑む(ほほえむ)大地であり、アジアのアルカディアである」と著書でそう伝えています。
ちなみに私は大同二年という年号を割りと胡散臭く思っていたりします。笑
というのも、大同二年に創立したお寺や神社、噴火した火山というのがあまりに多すぎるから。大同二年創立の寺や神社は、空海・徳一・坂上田村麻呂が関わっていることが本当に多いです。
亀岡の由来は割と新しい時代に付いた名前のようですが、かめおか=神岡と妄想できなくもないな~と思います。そしてこの文殊菩薩が伊勢の渡会郡の神乳山からやってきたという話があるようですが、これと全く同じ話が、会津の伊佐須美神社の文殊堂につたわっているので、米沢と会津の繋がりを考えると(上杉が会津から米沢に移封したころか)この説話自体はそんなに歴史の古いものではない気がします。